身延入山と門下の育成(みのぶにゅうざんともんかのいくせい)

日蓮大聖人は、佐渡配流赦免ののち鎌倉に戻り、三度目の国諌をされましたが、聞き入れられなかったため隠棲(いんせい)を決意されました。その後、身延に入山され、多くの御書を著し、弟子信徒の育成に努められました。

頼綱(よりつな)を諌暁(かんぎょう)する大聖人
頼綱を諌暁する大聖人
■第三の国諌(だいさんのこっかん)

鎌倉に帰られた日蓮大聖人は、文永11年(1274年)4月8日、平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)をはじめとする幕府の要人と対面されました。これを『第三の国諫』といいます。
このとき大聖人は、頼綱の質問に対し諸宗では成仏できないこと、蒙古は今年中に必ず襲来することを断言し、早く正法に帰依するように諫言されました。しかし、頼綱はこれを聞き入れることはありませんでした。

撰時抄(せんじしょう)
撰時抄
■三度の高名(さんどのこうみょう)

三度の高名とは、日蓮大聖人が為政者に対して行った三度の諌暁をいいます。
『撰時抄』に「予に三度のこうみょうあり」と述べられています。

①文応元年(1260年)7月16日、当時の最高権力者北条時頼に『立正安国論』を奏呈されたこと。
②文永8年(1271年)9月12日、草庵を襲い、大聖人を捕縛した平左衛門尉頼綱に諌暁されたこと。
③佐渡配流赦免ののち、再び左衛門尉頼綱と対面し、諌暁されたこと。

■身延入山(みのぶにゅうざん)

日蓮大聖人は「三度(みたび)国を諫(いさ)むるにも用(もち)いずば山林にまじわれ」と故事にならって隠栖(いんせい)を決意されました。
大聖人は、日興上人の勧めによって、文永11年(1274年)5月12日に鎌倉を出発し、同月17日に甲斐国身延(かいのくにみのぶ「山梨県身延町」)に入山されました。身延の地頭波木井実長(じとうはきりさねがな)は、日興上人の教化による信徒でした。

身延の草庵(みのぶのそうあん)
身延の草庵
■身延の草庵(みのぶのそうあん)

身延の草庵は、四方を天子ヶ岳(てんしがたけ)、七面山(しちめんざん)、鷹取山(たかとりやま)、身延山(みのぶさん)に囲まれ、さらに富士川、早川、波木井川(はきいかわ)、身延川(みのぶかわ)に挟まれた狭隘(きょうあい)な土地に建てられていました。
日蓮大聖人は『種々御振舞御書』に「昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問う人稀なれば道をふみわくることかたし」と記されています。

身延の日蓮大聖人のもとにご供養をお届けする南条時光(なんじょうときみつ)
身延の日蓮大聖人のもとに
ご供養をお届けする南条時光
■身延でのご生活(みのぶでのごせいかつ)

日蓮大聖人の身延でのご生活は、冬は寒く、衣食に事欠く状況でした。
大聖人は「雪を食として命をつなぎ、蓑(みの)をきて寒さをしのいでいる。山で木(こ)の実が採(と)れない時は二、三日を空腹のまま過ごし、着ている鹿皮(しかがわ)が破れてしまえば着るものもなく、三、四カ月を過ごす状態である」(単衣抄「ひとえぎぬしょう」)と記されています。
信徒からの御供養(ごくよう)の品々があったとはいえ、多くの弟子たちを養うには充分ではなく、たいへん質素なご生活でした。

弟子たちに講義をされる大聖人
弟子たちに
講義をされる大聖人
■門下の育成(もんかのいくせい)

法華読誦の音(こえ) 青天に響き 
      一乗談義(いちじょうだんぎ)の言(ことば) 山中に聞こゆ

(忘持経事「ぼうじきょうじ」)

日蓮大聖人は身延において、法華経の深義(じんぎ)や重要法門を教授され、門下の育成に努められました。
当時の様子について、大聖人は「今年一百余人(いっぴゃくよにん)の人を山中に養いて、十二時(じゅうにとき)の法華経を読ましめ談義して候(そうろう)ぞ」(曽谷殿御返事「そやどのごへんじ」)と記されています。
また、大聖人の御書は、現在、五百余篇(よへん)が伝えられていますが、そのうち三百余篇は身延に住(じゅう)された9ヶ年の間に著(あらわ)されたものです。