竜口法難(たつのくちほうなん)

日蓮大聖人は竜口法難において、それまでのお立場である上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の再誕としての垂迹身(すいじゃくしん)を発(はら)い、久遠元初(くおんがんじょ)の御本仏の本地身(ほんちしん)を顕(あらわ)されました。

法華経第五の巻で大聖人を打擲する少輔房
法華経第五の巻で
大聖人を打擲する少輔房
■平左衛門尉頼綱(へいのさいもんのじょうよりつな)への諌暁(かんぎょう)

日蓮大聖人は、文永8年(1271年)9月10日、極楽寺良観(ごくらくじりょうかん)らの讒言(ざんげん)により平左衛門尉頼綱の尋問を受けました。そして2日後の9月12日、大聖人は頼綱に書状(一昨日御書)を送り、再度、法華経に帰依するように諫められました。
頼綱はその日の夕刻、数百の兵を率いて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せ、土足で散々に踏み荒らし、大聖人を捕縛しました。頼綱の家来である少輔房(しょうぼう)は、大聖人が懐中(かいちゅう)していた法華経第五の巻(まき)を奪い取り、その経巻(きょうがん)で大聖人の頭(こうべ)を3度にわたって打ちすえました。この第五の巻には、末法に法華経を弘通するならば刀杖(とうじょう)の難に値(あ)うと説かれた勧持品第一三が収められていました。このとき大聖人は、頼綱に向かって「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり」と喝破(かっぱ)されました。これを『第二の国諫』といいます。

八幡大菩薩への諌暁(かんぎょう)
八幡大菩薩への諌暁
■竜口の刑場へ

今夜頸きられへまかるなり (種々御振舞御書「しゅじゅおふるまいごしょ」)

文永8年(1271年)9月12日、日蓮大聖人は、松葉ヶ谷の草庵から重罪人のように鎌倉の街中を引き回され、評定所(ひょうじょうしょ)へ連行されました。そこで平左衛門尉頼綱より佐渡流罪(さどるざい)が言い渡されました。しかしこれは表向きの評決で、内実はひそかに大聖人を斬罪(ざんざい)に処する計画でした。深夜になると大聖人は処刑のために竜口の刑場へと護送されました。その途中、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の前にさしかかったとき、大聖人は馬を下りられ、法華経の行者を守護すると誓った八幡大菩薩に対し、その誓いを守るよう諫められました。

頸の座(くびのざ)
頸の座(くびのざ)
■頸の座

竜口の刑場に着かれた日蓮大聖人は、頸(くび)の座に端座(たんざ)されました。太刀取(たちと)りが大聖人に向かって刀を振り下ろそうとした瞬間、突如、江ノ島の方角から月のような光り物が現れました。太刀取りは強烈な光に目が眩み倒れ伏しました。取り囲んでいた兵士は恐怖におののいて逃げ惑い、ある者はひれ伏したまま動けませんでした。結局、大聖人を斬首することはできませんでした。

『発迹顕本』
竜口における法難は、それまでの上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の再誕 日蓮の仮の姿(垂迹身「すいじゃくしん」)を発(はら)って、久遠元初(くおんがんじょ)の御本仏即日蓮としての真実の姿(本地身「ほんちしん」)を顕された、という重大な意義があります。これを『発迹顕本』(ほっしゃくけんぽん)といいます。
このことについて、日蓮大聖人は『開目抄』に「日蓮といいし者は、去年(こぞ)九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ。此(これ)は魂魄(こんぱく)佐渡の国にいたりて・・・」と明かされています。この「魂魄」とは、まさに久遠元初の御本仏としての魂魄であり、大聖人は竜口法難という身命(しんみょう)に及ぶ大法難のなかで、久遠元初の御本仏の境界(きょうがい)を開顕(かいけん)されたのです。

竜口における頸の座ののち、日蓮大聖人は、相模国依智(さがみにくにえち「神奈川県厚木市」)の本間六郎左衛門(ほんまろくろうざえもん)邸に身柄を移されました。9月13日の夜、大聖人が本間邸の大庭に出て月に向かって諌暁されると、大きな明星(みょうじょう)が降り来たり、梅の木の枝に掛かりました。
大聖人は、頸の座の光り物や星降りの現象について、後日、「三光天子(さんこうてんし)の中に月天子(がってんし)は光り物とあらわれ竜口の頸をたすけ、明星天子(みょうじょうてんし)は四・五日已然に下りて日蓮に見参(げんざん)し給う」(四条金吾殿御消息)と仰せられ、諸天(しょてん)が大聖人を守護する証であると述べられています。

※「諸天」とは「諸天善神」の略で法華経とその行者を守護する善神です。